「奥州曙光」

「奥州曙光」
【壁紙】第85回全国花火競技大会 大会提供花火

2010年12月4日土曜日

#164 お好み焼き
















今日は、
朝から風が強く、
冷たい雨が横に飛んでいく。


この風のために、
新幹線も運転停止状態である。


でも、
夜中に998hPaであった気圧が、
今、1010hPaにまで高くなってきた。
あのでかい低気圧が、
しだいに過ぎ去っていっているのだろう。


今、
テレビでは、
大阪のお好み焼きと尾道のお好み焼きを
食べ比べている。
NHK「てっぱん」の放送である。


子どもを亡くしたおばあちゃんと、
母親を亡くした孫娘が、
20年ぶりに味わっている。


富司純子のおばあちゃんが、
いい雰囲気でドラマをまとめており、
このおばあちゃんのように、
厳しく温かく、
年齢を重ねて行きたいものだと思う。





が、どうなることやら・・・?


さて、さて、
これからの季節、
お好み焼きが恋しい天気が続くが、
笑顔いっぱい
元気いっぱい
夢いっぱい
頑張ろう!

2010年12月3日金曜日

#163 今年も忘れずに・・・?






















おはよがんす、まめでらしか~?


昨日は、
仙台への出張。
もちろん、
お昼は「山頭火」塩味ラーメン。
上品な白スープに
とろ旨チャーシューが絶品。


年末恒例の光のページェントは、
残念ながら
今週末からということ。


それでも、
市内のあちこちで
イルミネーッションをみることができた。


北国にも、
クリスマスや年末は、
忘れずにやってくるようだ。


・・・たまには、忘れてくれても・・・?


今日は、
全国的に空も荒れ模様!
お出かけのときは
くれぐれも要注意!

2010年12月1日水曜日

#162 親と子ども
















 中学生の頃、自分のことや友達のことでいろいろ悩む時期がありました。それは成績のことであったり、部活動のことであったり、または顔形や身体に関することであったりと様々でした。もちろん、親に相談したこともあり、逆に恥ずかしくて言えなかったこともあります。
 話をもちかけると、父や母は忙しくても耳を傾けてくれました。どんなに深刻なことでも、「うん、そうか」、「それで、おまえはどう思っているの・・・?」と返されることが多く、答えを教えてくれることは少なかった気がします。しかし、話を聞いてくれた、自分の悩みを分かってもらえたという安心感みたいなものがありました。

 10年以上も面倒を見てきた父や母にとって、子どもがいろいろなことをうまくやれないのは特別なことではなかったのでしょう。最初はハイハイもできなかったのに、やっと立って歩けるようになった。やがて、ようやくトイレも一人でできるようになった。そして今では、部活動を選んで自分なりにがんばっている。どこの家庭にも、ひとつひとつ段階を踏みながら成長する姿を見守ってきた家族の物語があります。父や母はそれを知っています。だから、他の子どもがうまくできることを、自分の子どもがうまくできずにいても、待っていられたのだろうと思います。

 いろいろなことに悩み、時には失敗もするのが中学生という時期です。その悩みを小さなことと突き放したり、失敗やうかつさを責めるのは簡単です。しかし、悩みや失敗で落ち込んでいる気持ちを解きほぐし、明るさや笑顔を取り戻すきっかけをつくってあげるのが大人の役目ではないでしょうか。全国の中学生に、家族や友達や先生方、そして、地域のみなさんの心のあたたかさに触れる機会がたくさんあることを願っています。 

2010年11月30日火曜日

#161  裁判員裁判の限界 その2
















おはよがんす、まめでらしか~?

幼かった頃に、
お小遣いもお菓子もくれないおとんは悪い人で、
いつもくれるおかんはいい人であった。

犯罪に限らず、日常生活の中で、
私たちは、それと意識しないまま、
いろいろな場面で周囲の人間を裁いている。

そして時には、
自分自身を法廷に引きずり出し、
良心を主張する検察官と、
悪心を擁護する弁護士を戦わせることもある。
その繰り返しが生きることであり、生活することである。

このように考えると、
これまで死刑を宣告した人もいるが、
いまだに処分保留のままであり、
当然のことであるが実刑を課すことは無い。
それをやっちゃったら、おしまいである。

また、自分自身のことについても、
良心が勝つこともあれば、
やんぬるかな、悪心が勝つことも希有ではない。


昔、
学校の道徳の時間に学んだ「葛藤」という言葉、
漢字二文字だけの簡単な熟語である。
しかし、
その葛藤という谷底に落ちてしまったら、
簡単には抜け出せない。

本道を進んでいるつもりが横道であったり、
こっちが抜け道と思った方がドロ沼であったりする。

私たちの生活もまた同じであろう。
正しい道を求め、
そこをまっすぐに歩きたいと願っていても、
その道から逸れてしまわざるを得ない時もある。

肝要なのは、
道を外れたという自覚があるか、
正道に戻ろうという勇気があるかである。


そこまで、推し量ることが、
今、裁判員裁判で求められている。
過去に起きた犯罪について、
被告の過去の心、
現在の心、
そして、
将来の心まで推し量ることが、
一般市民にどれだけ可能なのか、

その可能性を見極めるのは、
一体、誰なのか。


人が人を裁くことは難しい。
しかし、
それよりも難しい、
人が人を教育するという仕事をしている人もいる。


人間一生涯、学習である。

2010年11月29日月曜日

#160  裁判員裁判の限界 その1
















おはよがんす、まめでらしか~?


人間は、
社会生活がうまくいくように法律をつくった。
だが、その人間がつくった法律は、
それだけで処理し決定できるものではない。
むしろ逆に、
その法に基づいて判定することを、人間が求められる。
裁判が難しいのは、そのためである。
しかし、
神が犯した罪ならば神の裁きに任せればよいが、
人間が犯した罪は人間が裁くしかない。
もちろん、
死刑を求刑される裁判であれば、
その難しさはなおさらである。
命と心を天秤にかけられるはずがないが、
底知れぬほど深い人間の心は、
裁かれる人間だけではなく、
裁く側の心まで傷つける。
裁判員裁判は、こうした両刃の剣でもある。


「罪を憎んで、人を憎まず」と言うものの、
罪を犯した人間の心を知らずに、
その罪だけを裁くことはできない。
どんな事情があるにせよ犯罪を犯してはならない。
それは当たり前であるが、
そうせざるを得なかった情状酌量の余地を推し量るのも
人間の惻隠の情というものであろう。
その命と心の狭間に
悩み、苦しみ、もがく瞬間、
そこから抜け出すには相当の勇気と決断力が必要である。
その苦悩をプロの裁判官だけではなく、
一般市民にも背負って貰おうというのが裁判員裁判制度である。

(つづく)

2010年11月28日日曜日

#159  「加奈子への手紙」シリーズ


















おはよがんす、まめでらしか~?


今朝は、
気温7.7℃、
西北西の風、風速7m/s,
湿度77%、気圧hPa、
あいにくの雨模様の秋田です。


昨日は、
「加奈子への手紙」シリーズの10冊目の発刊をお祝いするため、
船越準蔵先生ご夫妻を囲む会がありました。
83歳を越える先生が、
なおご壮健でにこやかに笑みを浮かべ、
少々はにかみ、奥様をかばいながら来られました。

会を企画した幹事さんたちも
みな80歳前後という年齢にもかかわらず、
受付から司会進行まで、若い者には任せられないという
元気のよさに驚きました。

数十年ぶりに昔の同僚が集い、
あのころ、このころと話がはずみ、
誰もがすっかり遠い昔の、
若かりし頃に戻っているようでした。

そうです。
あのころ、みんな若かったのです。

でも、
あのころの話をしている瞳が、
あのころの若さに輝いてくるのは不思議です。
想い出は単なる想い出ではなく、
今を輝かせるものかも知れません。

私もまた、
少し若返ったような心地で家に戻りました。