「奥州曙光」

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2010年11月30日火曜日

#161  裁判員裁判の限界 その2
















おはよがんす、まめでらしか~?

幼かった頃に、
お小遣いもお菓子もくれないおとんは悪い人で、
いつもくれるおかんはいい人であった。

犯罪に限らず、日常生活の中で、
私たちは、それと意識しないまま、
いろいろな場面で周囲の人間を裁いている。

そして時には、
自分自身を法廷に引きずり出し、
良心を主張する検察官と、
悪心を擁護する弁護士を戦わせることもある。
その繰り返しが生きることであり、生活することである。

このように考えると、
これまで死刑を宣告した人もいるが、
いまだに処分保留のままであり、
当然のことであるが実刑を課すことは無い。
それをやっちゃったら、おしまいである。

また、自分自身のことについても、
良心が勝つこともあれば、
やんぬるかな、悪心が勝つことも希有ではない。


昔、
学校の道徳の時間に学んだ「葛藤」という言葉、
漢字二文字だけの簡単な熟語である。
しかし、
その葛藤という谷底に落ちてしまったら、
簡単には抜け出せない。

本道を進んでいるつもりが横道であったり、
こっちが抜け道と思った方がドロ沼であったりする。

私たちの生活もまた同じであろう。
正しい道を求め、
そこをまっすぐに歩きたいと願っていても、
その道から逸れてしまわざるを得ない時もある。

肝要なのは、
道を外れたという自覚があるか、
正道に戻ろうという勇気があるかである。


そこまで、推し量ることが、
今、裁判員裁判で求められている。
過去に起きた犯罪について、
被告の過去の心、
現在の心、
そして、
将来の心まで推し量ることが、
一般市民にどれだけ可能なのか、

その可能性を見極めるのは、
一体、誰なのか。


人が人を裁くことは難しい。
しかし、
それよりも難しい、
人が人を教育するという仕事をしている人もいる。


人間一生涯、学習である。

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