「奥州曙光」

「奥州曙光」
【壁紙】第85回全国花火競技大会 大会提供花火

2010年9月18日土曜日

#101 谷村新司 心の旅















CATV番組「谷村新司 心の旅」を見た。

ヒット曲「昴」
その歌詞に隠されているメッセージを見つけるため、
中国の西安、インドのデリーなどを
一人の旅人として巡る旅である。
その旅紀行や彼のナレーションの中に
気になる言葉がいくつかあった。



※「出会った人や出会った出来事に、
  意味のないものなんか一つもない」

私は今まで、
出会った人や出来事の中から、
自分にとって意味のある人とのつながりを求め、
自分にとって意味のある出来事を大切なものと、
そう考えていた。
しかし、
それは間違っていたのかも知れない。
すべての人に意味があり、
すべての出来事に意味があったのだ。
だとすれば、
過去に私が見過ごした人、
見過ごした出来事が、
たくさんあったのかも知れない。



※「旅人は、当事者になれない」

これまでの自分は、
何処を旅しても、
自分を中心に考えて、
自分の目線で旅行地を見てきた。
しかし、
そこにはそこに住む人たちが生活しており、
自分は通りすがりの旅人でしかない。
そういう視点を忘れてしまっていた。
旅人は通りすがりの人間。
所詮、当事者にはなり得ない。


※「破壊とは単に壊すことではなく、
  今までの概念を捨て新たに創り直すこと」

この言葉から私なりに、
「破壊」ということは、
これまでの自分の殻を壊して、
その殻を破り、
そこから抜け出すことなんだと言うことを教えられた。



※「祈りは、欲望なのか」

これまで私は、
純粋な気持ちで祈りを捧げてきたつもりであった。
しかし、
中国やインドの大自然の中を旅する彼が、
そこで、
多くの人々が寺院やガンジス川で祈る姿を見ながら、
もしかして祈りは欲望なのかも知れないと感じた。
大自然を前に、
人間の祈りは小さな小さな欲望に過ぎない。
そういうことなのだろうか。


心の旅を終えた谷村新司。
今までの自分を破壊し、
新たな世界に目覚めた谷村ワールドに期待したい。

2010年9月17日金曜日

#100 カンパとコンパ















大学生になったばかりの頃、
「カンパ」があったり、
「コンパ」があったりで、
どっちがどっちか紛らわしくて、
そのたびに混乱した時があった。

一方は心が少し豊かになり、
他方はお腹がいっぱいになるという違いがあるが、
どちらも、
財布からお金が出ていくことは同じであった。

卒業後、
職場の同僚に神田くんと今田くんがいた。
またまた、
「カ」と「コ」の違いに悩まされた。
神田くんと一緒にカンパに歩き、
今田くんとコンパに参加した。

あれっ、
反対だったかなぁ?

こんなに「カ」「コ」で悩むなんて、
私の過去に
どんな問題があったのだろうか?

さて、
このところの涼風で、
秋田の「タンボ」には「トンボ」が舞う。
秋の田にもようやく秋の気配。

今日も、
笑顔いっぱい
   元気いっぱい
      夢いっぱい
        頑張りましょう!
 

2010年9月15日水曜日

#99 真夏に小雪
















今日の日経新聞の20~21面。
小雪さんの実物大以上の顔がアップで掲載されている。
ライオン株式会社のCMである。
一面で5千万円のCM料金だとすれば、
二面で一億円という計算になる。
「風邪をひいても、横になっていられない」という人へ!
というコピーが記載されている。
日本人が風邪を押して仕事に励むために、
広告料一億円が消費された。
これだけ頑張ったら、
経済不況から脱出できるかも知れない。
菅総理の菅流経済対策に期待したい。

それにしても、
真夏に小雪という組み合わせが面白い。
今冬は小雪なのだろうか?
そして、
昨年の今頃に、
世界中で大騒ぎした
新型インフルエンザを思い出した。
あのウイルスは、
今、何処でどうしているんだろう?

家の棚には、
あのときに買いためたマスクが一箱、
手つかずで残っている。
あなたの家にも、
ありませんか?

2010年9月13日月曜日

#98 つぎあてのない靴下















 男の子のズボンは、誰もみな、お尻と膝のところにつぎあてがあった時代がある。野山を駆けまわり転げまわり、一番先に穴が空くのはズボンのお尻と膝小僧であった。だからと言って、おいそれと新しいズボンを買う余裕は、どこの家にもなかった。ましてや、育ち盛りの5人の兄姉がいる末っ子の私、新品のズボンを持っているわけがない。当然のように、靴下にもまた、いくつかのつぎあては当たり前であった。

 ある冬の朝、何を思ったのか、「こんな靴下なんか、イヤだ」と駄々をこねた。靴下のかがとに穴が空き、前の晩に母親が他の布をつぎあてしてくれた靴下であった。見かねた父親が、自分の履いている靴下を差し出した。それを横目に見ながら、私は裸足に長靴を履いて、雪の中、学校に走った。次の朝、私の枕元に真新しい靴下が置いてあった。それを履いて喜々として朝食の飯台に坐るとき、父親の足に昨日の私の靴下がチラッと見えた。母親も父親も何も言わなかったが、涙がとまらなかった。

親には親の言い分があるが、子どもには子どもの言い分もある。お互いに、それを真正面からぶつけ合ってばかりいたのでは心がすれ違うばかりである。反対に、お互いに、言いたいことも言えないような環境では、どちらも心が荒んでしまう。大人は大人の言い分を押し切る強さを持っているが、子どもにとっては、子どもの言い分を聞いてくれる相手が必要である。「聞いてくれない」ときの孤独感は、「理解してくれない」ときの悲壮感よりも子どもの心を惨めにする。

 何も言わない両親が行動で示してくれた親心が、我が儘いっぱいであった私の胸に、「我が儘もほどほどに」という自制心を植え付けてくれた出来事であった。諭されるよりも、怒鳴られるよりも、味噌蔵に閉じこめられるよりも、強烈なアッパーカットであった。当時の靴下一足の値段がどのくらいであったのか、その金を両親がどうやって工面したか、その日に両親がどのような話し合いをしたか、そのために私の家族が何を犠牲にしたか、私は分からない。また、今となっては、聞く術もない。しかし、この両親に育てられた私は、本当に幸せ者である。そのことだけは分かるつもりだ。それなのに、このような子どもの気持ちを察するという子育ての極意を身をもって教えられながら、私は自分の子どもの子育てにどれだけ生かすことができただろうか。また、長いこと子どもの教育という仕事に携わりながら、多くの保護者にその極意を伝える努力をどれだけしてきただろうか。自問するばかりである。