そりゃあ、生きているといろんなことがあります。でも、誰かを憎んだり、恨んだり、蔑んだところでもどうにもなりません。 憎まず、嫌わず、蔑まず! 今日も、笑顔いっぱい元気いっぱい夢いっぱい、頑張りましょう!
2010年5月21日金曜日
#24 金星探査機「あかつき」
庭の芝桜
今朝午前6時58分、
鹿児島県南種子町の種子島宇宙センターから
H2Aロケット17号機が打ち上げられた。
約27分後、
日本初の金星探査機「あかつき」を無事分離、
打ち上げは大成功であった。
半年後、
「あかつき」から送信される
金星の写真や調査データが楽しみだが、
それまで、
笑顔いっぱい、
元気いっぱい、
夢いっぱい、
頑張りましょう!
2010年5月18日火曜日
2010年5月17日月曜日
#22 セピア色のおもむき
物心がつき始めた頃、家族の人数が近所の家よりもずいぶんと多いことに気がついた。しかも、おばあちゃんが二人いると思っていたのだが、少ししてから片方のおばあちゃんは隣の家の住人であることが分かった。毎日来て居間の囲炉裏の所に座っていたので、どうも知らないうちに勘定に入れていたらしい。しかし、そのことは誰にも話していないので、私の勘違いはこのまま秘密にしておいてもらいたい。やがて、末っ子の私が小学校に入学するとき、私の上には小学生、中学生、高校生、社会人という兄姉がいた。入学式の記念写真に一番上の姉が写っているが、なぜなのかは記憶にない。しかし、私はというと、カメラ目線で笑っており、我ながら憎めない表情をしている。
当時、朝起きて顔を洗って最初にするのが、台所で炊事をしている母親の背中に向かって、大きな声で教科書を読むことであった。「朝読み」と言われた音読である。声が小さいともう一回と言われるので、それがイヤで意味もロクにわからないままに大声を張り上げた。すぐ上の姉にならってやっていたのだが、いつの間にか私だけになっていた。姉がサボッたのか、私の声が大きいからやめてしまったかはナゾである。勘違いは秘密だが、ナゾと言うのは解決しなければならない。亡くなる前に、真相を聞こうと思う。
ところで、理科教師になって、チイチイパッパのような授業をしていたときの話である。地球の惑星の学習では、何が何でも「日水金地火木土天海冥」を覚えてほしいと思った。最初は、順序に黒板に書いて、その上を指示棒でたたきながら大声で読んでもらった。そして、数回繰り返した後、いくつかの惑星を消した。それでも、指示棒でたたきながら一緒に読んでもらうと、だいたいはリズムに乗って読めるものである。群読の効果である。数週間続けていると、そのうち、全部消してしまっても大丈夫になる。これからが勝負で「後ろから逆に読んでみよう」というと、案の定しどろもどろである。しかし、子どもたちの能力は素晴らしい。そのうちに、それもマスターしてしまう。別に、教師の指導力が良いためではない。毎時間継続することによって、子どもが自らリズム感覚とともに習得するのである。
さて、何年か前のことである。当時の議会答弁検討会で担当者が音読をした。答弁は内容もさることながら、それを議場で読み上げるものであり、読むリズムがある。読みやすい表現もあれば、読みにくい言い回しもある。時間をたっぷりかけた答弁検討会は懐かしいだけでなく、物事を基本から掘り下げて考え直すという大きな意味もあった。さらには、音読効果もさりげなく活用していたことに、今更ながら驚いている。しかし、今、「朝読み」をしている家が、どれだけあるだろうか。スズメの学校スタイルの覚え込む授業というのは、学校で行われることがあるだろうか。昔のスタイルがすべて悪いわけではない。誰一人としてピースサインをしていない、昔のモノクロ記念写真のセピア色も趣があるものだ。
当時、朝起きて顔を洗って最初にするのが、台所で炊事をしている母親の背中に向かって、大きな声で教科書を読むことであった。「朝読み」と言われた音読である。声が小さいともう一回と言われるので、それがイヤで意味もロクにわからないままに大声を張り上げた。すぐ上の姉にならってやっていたのだが、いつの間にか私だけになっていた。姉がサボッたのか、私の声が大きいからやめてしまったかはナゾである。勘違いは秘密だが、ナゾと言うのは解決しなければならない。亡くなる前に、真相を聞こうと思う。
ところで、理科教師になって、チイチイパッパのような授業をしていたときの話である。地球の惑星の学習では、何が何でも「日水金地火木土天海冥」を覚えてほしいと思った。最初は、順序に黒板に書いて、その上を指示棒でたたきながら大声で読んでもらった。そして、数回繰り返した後、いくつかの惑星を消した。それでも、指示棒でたたきながら一緒に読んでもらうと、だいたいはリズムに乗って読めるものである。群読の効果である。数週間続けていると、そのうち、全部消してしまっても大丈夫になる。これからが勝負で「後ろから逆に読んでみよう」というと、案の定しどろもどろである。しかし、子どもたちの能力は素晴らしい。そのうちに、それもマスターしてしまう。別に、教師の指導力が良いためではない。毎時間継続することによって、子どもが自らリズム感覚とともに習得するのである。
さて、何年か前のことである。当時の議会答弁検討会で担当者が音読をした。答弁は内容もさることながら、それを議場で読み上げるものであり、読むリズムがある。読みやすい表現もあれば、読みにくい言い回しもある。時間をたっぷりかけた答弁検討会は懐かしいだけでなく、物事を基本から掘り下げて考え直すという大きな意味もあった。さらには、音読効果もさりげなく活用していたことに、今更ながら驚いている。しかし、今、「朝読み」をしている家が、どれだけあるだろうか。スズメの学校スタイルの覚え込む授業というのは、学校で行われることがあるだろうか。昔のスタイルがすべて悪いわけではない。誰一人としてピースサインをしていない、昔のモノクロ記念写真のセピア色も趣があるものだ。
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