「奥州曙光」

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【壁紙】第85回全国花火競技大会 大会提供花火

2010年9月28日火曜日

#109 余白と李白
















 若い頃、生来の内気な性格から管理職や同僚にこびることが嫌いであった。だから、いつも人が集まっているところを避け、一人離れていた。昼休みなど、主任のまわりに群がって、親しく私語をかわしているような同僚が苦手だった。そのため、同僚とも必要最低限のやりとりしかせず、飲み会にも行かないし、行っても管理職のそばには近づきもしなかった。


 ある時、親しい先輩からこっぴどく怒られた。「おめだば、何考えているが、わがらねな」と。しかし自分では、バガしゃべりしている暇があったら、黙々と仕事している方がいいと思っていた。それでも、問題が発生したり、困った時には同僚や主任に相談するなど、必要なときに、必要なコミュニケーションはしっかりとってきたつもりである。


書道は筆使いの上手下手だけでなく、墨と余白のバランスだよ。書道だからといって紙面一杯に字を書けば、それは単なる黒い紙じゃないか。「仕事も職場も同じ、人生も同じだよ、余白が必要、余白が」そう言いながら、飲めない私をゴルフや山菜採りやパチンコに誘ってくれた先輩がいた。数年前に鬼籍に入ってしまったが、彼がいなければ今も紙面一杯に字を書き尽くす人生を送っていただろう。しかし、私の余白が普通の人以上に多すぎるのは、すべて彼の影響である。良い先輩でもあり、悪い先輩でもあった。


 必要なときに必要なコミュニケーションをとってきた。こう言えば聞こえはいいが、逆に、必要なとき以外はコミュニケーションをとらなかったのである。若い頃の必要なときとは、自分のミスでお手上げになったときである。懸命な私にとって、それは仕事の3%くらいの部分で、残りの97%は淡々とこなす日常であった。だとすれば、周囲の同僚や主任にとって、私の3%が私の全てであったのだろう。これでは、「何考えているが、わがらねな」と言われてもしょうがない。彼らの余白と私の余白を共有する時間が、もっと必要であったことは言うまでもない。李白に「月下独酌」という漢詩がある。 
 花間一壷酒 独酌無相親 挙杯邀明月 
 対影成三人 月既不解飲 影徒随我身
李白から人生を考えるのもいいが、余白から人生を考えるのも、また楽しからずや・・・である。

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