「奥州曙光」

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2011年11月10日木曜日

#385 あなたのメンターは・・・?


































おはようございます。

秋田は気温6.4℃、
東南東の風、風速2.5m/s、
湿度83%、気圧1020.9hPa、
曇りの朝を迎えました。
綿みたいな大きな雲が、
ちぎれたり重なったりしながら
ゆっくりと飛んで行きます。
日中の予想最高気温は15℃、
ストーブが必要な一日です。


さて、今日はメンターについてです。
気の向かない方はスルーしてください。



「あなたには、メンターと呼べる人がいますか?」
「あなたのメンターは誰ですか?」
書き出しから突然の質問に「メンクラッター」という人も多いと思いますが、
おやじギャグに引いたりしないで最後までおつきあいください。
メンター(Mentor)という言葉は、
人生経験の豊富な人、指導者、助言者、教育者、恩師とも訳されていて、
仕事やキャリアのお手本となり活動全般を支援してくれる人のことです。



トロイア戦争後のオデェッセウス王の流浪を歌った
ホメロスの叙述詩『オデュッセイア』の中に、
メントールという賢者が登場します。
そのメントールこそ、
オデェッセウス王に息子テレマコスの教育を託され、
良き指導者、良き理解者、良き支援者としての役割を果たし
帝王学を教えた人物です。
その由来に基づき、
このような指導者を英語ではメンターと呼ぶようになったということです。



10年も20年も学校教育に携わっていると、
いろいろな活動実績をあげ指導力も向上します。
しかし、そのような成功体験が続くと、
周囲の反応は賞賛、喝采、共感、賛同など肯定的ものばかりで、
あえて苦言を呈してくれる人がいなくなってしまいます。
本人としては反応がいいので安心するものの、
内心は「本当のところはどうなのか?」という不安もあるものです。
しかし、誰もそこに踏み込んできてくれません。
ましてや上司であったり、指導的立場であったりすればなおさらです。
自信満々と疑心暗鬼とは、紙の裏表のように共存するものなのでしょう。



あなたが管理職や経営者、もしくは指導的立場にいるとしたら、
裸の王様かも知れないという疑心暗鬼のままでは、
いい仕事はできないし、夜も心安らかに眠ることができないでしょう。
そんなときこそ、
耳の痛いこともストレートに言ってくれるメンターの存在が必要です。
人間性というのは私たちが思っている以上に脆いもので、
いったんほころぶと雪崩のように崩れていきます。
今まで上手くいっていたことが、上手くいかなくなったり、
大切な人が離れていってしまったりしかねません。
どんな立場になっても、
褒められることと叱られることの両方が必要です。
もちろん、
ダイヤはダイヤでしか磨けません。
ダイヤのあなたを磨くメンターは、
ダイヤモンドのような人生の師匠でなければならないのです。

もう一度、問います。
「あなたには、メンターと呼べる人がいますか?」
「あなたのメンターは誰ですか?」



さあ今日も
笑顔いっぱい元気いっぱい夢いっぱい頑張りましょう!


*
**
***


2010年12月1日水曜日

#162 親と子ども
















 中学生の頃、自分のことや友達のことでいろいろ悩む時期がありました。それは成績のことであったり、部活動のことであったり、または顔形や身体に関することであったりと様々でした。もちろん、親に相談したこともあり、逆に恥ずかしくて言えなかったこともあります。
 話をもちかけると、父や母は忙しくても耳を傾けてくれました。どんなに深刻なことでも、「うん、そうか」、「それで、おまえはどう思っているの・・・?」と返されることが多く、答えを教えてくれることは少なかった気がします。しかし、話を聞いてくれた、自分の悩みを分かってもらえたという安心感みたいなものがありました。

 10年以上も面倒を見てきた父や母にとって、子どもがいろいろなことをうまくやれないのは特別なことではなかったのでしょう。最初はハイハイもできなかったのに、やっと立って歩けるようになった。やがて、ようやくトイレも一人でできるようになった。そして今では、部活動を選んで自分なりにがんばっている。どこの家庭にも、ひとつひとつ段階を踏みながら成長する姿を見守ってきた家族の物語があります。父や母はそれを知っています。だから、他の子どもがうまくできることを、自分の子どもがうまくできずにいても、待っていられたのだろうと思います。

 いろいろなことに悩み、時には失敗もするのが中学生という時期です。その悩みを小さなことと突き放したり、失敗やうかつさを責めるのは簡単です。しかし、悩みや失敗で落ち込んでいる気持ちを解きほぐし、明るさや笑顔を取り戻すきっかけをつくってあげるのが大人の役目ではないでしょうか。全国の中学生に、家族や友達や先生方、そして、地域のみなさんの心のあたたかさに触れる機会がたくさんあることを願っています。 

2010年11月6日土曜日

#140 カンガルーがいますか?



















ママ
ここに
カンガルーがいるよ





誰が作った詩か分からない。
題名はひらがなの「れ」。
このひらがなの形からカンガルーを想像できるのは、
小さな子どもしかいないのかも知れない。

でも、
お見事である。
子どものみずみずしい感性に脱帽!

先日の東京新聞コラム「筆洗」に教えられた。

2010年9月13日月曜日

#98 つぎあてのない靴下















 男の子のズボンは、誰もみな、お尻と膝のところにつぎあてがあった時代がある。野山を駆けまわり転げまわり、一番先に穴が空くのはズボンのお尻と膝小僧であった。だからと言って、おいそれと新しいズボンを買う余裕は、どこの家にもなかった。ましてや、育ち盛りの5人の兄姉がいる末っ子の私、新品のズボンを持っているわけがない。当然のように、靴下にもまた、いくつかのつぎあては当たり前であった。

 ある冬の朝、何を思ったのか、「こんな靴下なんか、イヤだ」と駄々をこねた。靴下のかがとに穴が空き、前の晩に母親が他の布をつぎあてしてくれた靴下であった。見かねた父親が、自分の履いている靴下を差し出した。それを横目に見ながら、私は裸足に長靴を履いて、雪の中、学校に走った。次の朝、私の枕元に真新しい靴下が置いてあった。それを履いて喜々として朝食の飯台に坐るとき、父親の足に昨日の私の靴下がチラッと見えた。母親も父親も何も言わなかったが、涙がとまらなかった。

親には親の言い分があるが、子どもには子どもの言い分もある。お互いに、それを真正面からぶつけ合ってばかりいたのでは心がすれ違うばかりである。反対に、お互いに、言いたいことも言えないような環境では、どちらも心が荒んでしまう。大人は大人の言い分を押し切る強さを持っているが、子どもにとっては、子どもの言い分を聞いてくれる相手が必要である。「聞いてくれない」ときの孤独感は、「理解してくれない」ときの悲壮感よりも子どもの心を惨めにする。

 何も言わない両親が行動で示してくれた親心が、我が儘いっぱいであった私の胸に、「我が儘もほどほどに」という自制心を植え付けてくれた出来事であった。諭されるよりも、怒鳴られるよりも、味噌蔵に閉じこめられるよりも、強烈なアッパーカットであった。当時の靴下一足の値段がどのくらいであったのか、その金を両親がどうやって工面したか、その日に両親がどのような話し合いをしたか、そのために私の家族が何を犠牲にしたか、私は分からない。また、今となっては、聞く術もない。しかし、この両親に育てられた私は、本当に幸せ者である。そのことだけは分かるつもりだ。それなのに、このような子どもの気持ちを察するという子育ての極意を身をもって教えられながら、私は自分の子どもの子育てにどれだけ生かすことができただろうか。また、長いこと子どもの教育という仕事に携わりながら、多くの保護者にその極意を伝える努力をどれだけしてきただろうか。自問するばかりである。

2010年6月14日月曜日

#39 ドングリコ!

 子どものように昆虫採集が趣味という解剖学者の養老孟司さんと、一貫して子ども向けの作品をつくっているアニメ作家で映画監督の宮崎駿さんが対談をした。その時の話が本になった、題名が「虫眼とアニ眼」というから面白い。徳間書店から出版され、新潮社から文庫本も出ている。

 10ページほど読み進んだところで、宮崎さんがこんな話をしている。
 親から、「うちの子どもはトトロが大好きで、もう100回くらい見てます」なんて手紙が来ると、そのたびにこれはヤバイなあと、心底思うんですね。誕生日に一回見せればいいのにって。結局、子どもたちのことについて何にも考えてない。~(中略)~トトロの映画を一回見ただけだったら、ドングリでも拾いに行きたくなるけど、ずっと見続けたらドングリ拾いに行かないですよ。なんで、そこがわからないんだろうと思うんだけど。いっそビデオの箱に書きたいですね、「見るのは年に一回にしてください」って。

いつの頃からか、学校が求める子ども像と保護者が求める子どもとが、大きくかけ離れてしまった。最初に人間の出来不出来が大切で、その次に勉強であった時代は、もう昔話になったのだろうか。どちらかが歩み寄って、望ましい子どもの姿を描こうとする矢先に、また、全国学力テストが始まった。人間性でメシが食えるかという考えが暗雲のように立ちこめ、安心安全が最優先で2番目に学力という時代である。中学生が学習塾から夜9時10時に帰宅するという状況を見ると、学力が最優先の時代なのかも知れない。

 市内の子どもの中には、ドングリの実を花屋さんで買うという子どももいる。その昔、小学校で「ドングリ、ころころ、ドングリコ」を習った翌日、友だち数人とグリコのキャラメルをしゃぶりながら近くの山に出かけ、野球帽に溢れるほどドングリを採った。それに比べると、今の子どもたちが可愛そうでならない。理科大好きの子どもたちを、理科嫌いにしたてあげたのは現代社会である。それなのに、子どもたちの責任であるかのように論じている大人がいる。おかしいよ。

 上記の第2段落の中ほどにある(中略)の部分で、宮崎さんは次のような警鐘を鳴らしている。「だって、結果として、養老さんが言うところの脳化社会に、ぴったり適応するような脳みそ人間だけを育てようとしてるでしょう。」歴史は繰り返すと言うが、教育が荒廃し校内暴力が吹き荒れた時代を繰り返してはならない。だからこそ、教育行政にも教育現場にも、歴史に学ぶ智恵と新たな歴史を創る方策が求められている。

2010年5月12日水曜日

#20 家族の愛、家族の絆














「鎖は一番弱い輪より、強くはならない」
と言います。
愛や絆も同じ。
家族の愛も家族の絆も、
一番強い部分が、その家族の愛や絆の強さではない。
一番弱い部分が、家族の愛であり家族の絆なのでしょう。

さらに、
この鎖は腐食するし、老化もします。
だから、
毎日、確かめ合うのです。
だから、時々、
優しく声をかけあってメンテナンスするのです。
だから、
時には、
強く引いて試すのです。

そして、祈るのです。
この愛が、
いつまでも腐食しないように!
この絆が、
いつまでも老化しないように!
一番弱い部分が、
一番強い部分と同じ強さになるように!